東京高等裁判所 昭和59年(行コ)23号 判決 1988年11月15日
控訴人
荒井義雄
控訴人
大木初太郎
控訴人
斎藤正義
控訴人
廣岡健次
控訴人
梁瀬和男
控訴人
塚越龍生
控訴人
大場愛三
控訴人ら訴訟代理人弁護士
重松蕃
同
新井章
同
小林保夫
同
林健一郎
被控訴人
群馬県教育委員会
右代表者委員長
児玉貴
右訴訟代理人弁護士
春田政義
右指定代理人
高野貫行
同
坂爪睦郎
同
笛田浩行
同
堀口康平
同
菅野清
同
飯野真幸
主文
本件控訴をいずれも棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人ら
1 原判決を取消す。
2 被控訴人が控訴人らに対してなした原判決別紙一(処分等の表示)記載の各懲戒処分を取消す。
3 訴訟費用は第一、二審を通じて被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
本件控訴をいずれも棄却する。
第二当事者の主張、証拠関係
当事者の主張、証拠関係は、次に附加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
一 控訴人らは、当審において、その別紙第一ないし第三準備書面及び最終準備書面記載のとおり主張した。
二 被控訴人は、当審において、その別紙第一ないし第三準備書面記載のとおり主張した。
三 当事者の当審における新たな証拠関係は、当審記録中の証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一 当裁判所は、控訴人らの請求をいずれも棄却すべきものと判断するが、その理由は、次のとおり附加、訂正するほかは、原判決の理由説示を基本的に正当としてここに引用し(但し、以下に述べるところと抵触する限りにおいては、本判決の判示のとおり変更されたものとする。)、なお、当審における控訴人らの主張に即して、その理由を二、三において若干補足する。
1 原判決三〇枚目表五行目の「認みる」を「認める」と改める。
2 原判決六一枚目裏一行目の「各証言」の次に「(浅見一也については原審及び当審)」を加え、同一〇行目の「教組」を「高教組らの教組」と改める。
3 同六二枚目表五行目の「教組側は、勤評実施絶対反対の態度を維持し」を「教組側は後記のような経過ないし事情、遡っては控訴人主張の勤評制度に対する全般的理解から、勤評実施絶対反対の態度を堅持し」と改め、同一一行目の「強行実施」を「実施」と改め、同裏一二行目の「制定公布した」の次に「(もっとも、右勤評規則のいわば中身にあたる勤評実施要領が制定さたのは同年七月二日であった)」を加える。
4 同六三枚目表五行目の「証人」を「原審及び当審証人」と改める。
5 同六四枚目表一二行目の「黒澤得男」の次に「、門伝誠吾、伊藤順(伊藤順については当審)」を加える。
6 同六六枚目表八行目の「対策を」の次に「一〇・二一校長会議の前に予め」を加え、同一一行目の末尾に「、」を加え、同一四行目の「浅見一也」の次に「(伊藤順及び浅見一也については原審及び当審)」を加え、同裏一行目の「原告大木初太郎(第一、二回)」を「控訴人大木初太郎(原審第一、二回及び当審)」と改める。
7 同六八枚目裏一〇行目の「証人」を「原審及び当審証人」と改め、同一三行目の「伊藤順」の次に「(浅見一也及び伊藤順については原審及び当審)」を加え、同一四行目から同六九枚目表一行目にかけての「原告大木初太郎(第一、二回)」を「控訴人大木初太郎(原審第一、二回及び当審)」と改める。
8 同七一枚目裏二行目の「乙第五号証の一及び二」を「乙第五号証の一の一」と改め、同三行目の「第一九号証の一及び二」の前に「第五号証の二、」を加え、同七行目の「小池悊」の次に「(伊藤順については原審及び当審)」を加え、同八行目の「浅見一也」の次に「並びに控訴人大場愛三」を加える。
9 同七二枚目裏一三行目の「実施指導」を「実地指導」と改める。
10 同七六枚目表一一行目の「制定公布」の次に「及び一〇・二八統一行動等の実施」を加え、同一四行目の「甲第一四号証の一ないし五、」の次に「第一三三ないし第二七四号証、原本の存在及び成立に争いのない甲第四二六号証の一、二、弁論の全趣旨により成立を認める甲第三八四号証、」を加え、同裏一行目の「稻垣倉造」の次に「、山口鶴男(浅見一也については原審及び当審)」を加え、同二行目の「本人尋問の結果、」の次に「控訴人大木初太郎本人尋問の結果(原審第二回及び当審)」を加える。
11 同七七枚目表六行目の末尾に「他方、被控訴人側は、同年三月四日の群馬県議会において、山口鶴男県会議員の質問に対し、斎藤教育委員会委員長が、勤評は法に明示されているので、我々としては当然実施すべき事項と考えており、全国試案の検討、研究を関係機関と共にすすめる意向を表明してきたが、ただこれらのことは、まだ正規の議題としては取り上げていない旨の答弁をし、また、同月一三日の同県議会においては、田辺誠議員の質問に対し、黒澤教育長が、勤評は私どもの職務、責任において行うべきもので、そのために大方の方々に納得してもらうような方向で努力中である旨答弁し、更に、同年四月一日の高教組らとの団交の場で、斎藤教育委員会委員長が、春休み中は勤評の実施を考えていない、抜打ち実施はやらない旨を述べるなど、終始、勤評実施の意向を明らかにしてはいたものの、いつ実施するかについては、言質を与えようとしなかった。」を加え、同一二行目の「作成、提出を」の次に「、従前の被控訴人の言明に反するもので」を加え、同裏一一行目の「教組」を「高教組」と改め、同一二行目の末尾に「このことは、高教組等の危機意識を更に高めて勤評撤回のための闘争意欲を増進させ、以後同年九月一五日実施の全国統一勤評反対闘争を始め、前記の一〇・二一及び一〇・二三各校長会議開催阻止行動を経て一〇・二八統一行動に続くのであるが、この間中央では、文部省と日教組との対立を背景に、著名な学者文化人からも勤評実施反対又は慎重論が唱えられる状勢となり、地元でも高校長協会は、勤評規則のみならずその実施要領が制定公布された後もなお批判的な見解を被控訴人に表明して、その基本的な姿勢を変えようとしなかった。」を加え、同一三行目の「右勤評規則制定」の次に「から一〇・二八統一行動に至るまで」を加え、同一四行目の「するにつき、」の次に「当初その実施の時期等を明言せず、一種あいまいな態度に終始し、」を加え、同行の「右の」を「更に右のような」と改める。
12 同七八枚目表一行目の「当時の」から同四行目の末尾までを「当時及びその後の中央と地方とを問わぬ右にみたような社会状勢の下で、教員に対する勤評そのものの実施が違法不当な措置であり、戦後の民主主義教育を侵害し、教組の突崩しを意図する反動的文教政策のあらわれであると固く信ずる控訴人ら(この点は、前掲浅見、大木の証言や本人尋問の結果に徴して容易に看取される。)が、右勤評規則制定公布後も勤評反対闘争を継続し、遂に前示のように本件争議行為に及んだについては、その心情を理解するにやぶさかではない。」と改め、同五行目の「しかし、」の次に「それにもかかわらず、控訴人らに対する本件懲戒処分を懲戒権の濫用として無効とすることはできない。即ち、」を加える。
13 同八〇枚目表三行目の「できる」を「でき、また教育長は、地方教育行政法三条、四条、一六条、一七条、三四条によれば、都道府県にあってはその教育委員会が文部大臣の承認を得て任命するが、市町村教育委員会の教育長は、当該市町村教育委員会がその委員のうちから都道府県教育委員会の承認を得て任命するもので、人格高潔、教育、学術及び文化に関して識見を有する者として選ばれる教育委員そのものなのであり、いずれにせよ、教育委員会の指揮監督の下に、その権限に属するすべての事務をつかさどり、とくに、教育委員会がその所管の学校その他の教育機関の教員等の職員の任命をするには、教育長の推薦によるとされていること等に鑑みれば、第二次評定者(調整者)として、その適格を有するものということができる。」を加え、同一四行目の「人事院規則」を「人事院規則(昭和二七・四・一九、人規一〇―二)(以下単に「人規一〇―二」という。)」と改める。
14 同八二枚目表七行目の「携さわる」を「携わる」と改め、同八行目の「ものではなく、」の次に「少なくともその勤務時間中にあっては、」を加え、同裏二行目の「できない」の次に「(事の性質上その一々を量定しえないのは当然であるが、例えば、前掲乙第一〇号証の三によれば、高教組自身それが父兄と生徒に動揺を与えることを当然の前提としていたことを推知させる)」を加える。
15 同別紙四の一枚目裏富岡高校の早退者数欄に「37」とあるを「30」と改め、同二枚目表高崎女子高校の早退時刻欄に「14.00」とあるを「14.00~15.00」と改める。
二 原判決が地方公務員法(以下「地公法」という。)三七条一項の争議権を禁止していることを以て憲法二八条に違反しないとしたのは誤りであるとする主張について
(ちなみに、原判決が、地公法三七条一項につき、争議権の前面一律禁止の規定と解しても憲法二八条に違反しないとしたのかはややはっきりしない点もあるが、行論の全趣旨からすれば、これを肯定すべきものと考える)。
1 まず、原判決の地公法三七条一項に関する憲法判断が最高裁判所昭和五一年五月二一日大法廷判決(以下「岩教組学テ判決」という。)の書き写しであり、この点で原判決はすでに憲法七六条三項の趣旨にそむくとのそしりを免れないとする点についてであるが、裁判官が当該裁判において、自ら信ずるところにより、さきになされた最高裁判所の判例に同調する場合には、これに依拠して判断すること自体何ら憲法七六条三項の法意にそむくものでないことは言うまでもないところ、その判決文の表現において右判例の書き写しの域を出なかったとしても、その理を異にするものではない(もっとも、このような場合には、その引用判例も明示しておくことが、発想と文章に責任を持つべき立場の者として望ましいと考える)。
原判決が控訴人ら主張のとおり、岩教組学テ判決に依拠していることはその判文上明らかであるが、そうであるからといってこれを書き写し判決として主張のような批判を加えるのはあたらないこと上にみたとおりである。
2 ところで、原判決が依拠した岩教組学テ判決が、地公法三七条一項は地方公務員の争議権を一律全面的に禁止したものとして憲法二八条に違反するところはないとした結論は、現在の時点では、判例として確立しているというべきである。
即ち、最高裁判所は、非現業国家公務員につき昭和四八年四月二五日大法廷判決(以下「全農林判決」という。)において、また現業国家公務員につき同五二年五月四日大法廷判決(以下「名古屋中郵判決」という。)において、それぞれ、非現業地方公務員についての岩教組学テ判決と同様に、国家公務員法九八条五項(昭和四〇年法律第六九号による改正前のもの、現行法九八条二項)、公共企業体等労働関係法一七条一項が、いずれも、争議行為の一律全面禁止をうたったものとして、憲法二八条に違反しないとしたこと、その後、最高裁判所は、(1)地公法三七条一項そのものについては、<1>昭和五二年一二月二三日第二小法廷、<2>同五三年九月七日第一小法廷、<3>同六三年一月二一日第一小法廷等の各判決において、(2)国公法九八条五項については、<1>昭和五九年一月二七日第二小法廷、<2>同六〇年一一月八日第二小法廷等の各判決において、(3)公労法一七条一項については、<1>昭和五三年七月一八日第三小法廷、<2>同五六年四月九日第一小法廷(但し、専売公社山形工場戒告事件)、<3>同六二年三月二〇日第三小法廷(但し、同日同小法廷から全林野関係の三つの判決がなされており、そのいずれもがここにあげられる。)、<4>同年同月二七日第二小法廷等の各判決において、それぞれ、前記岩教組学テ判決、全農林判決、名古屋中郵判決に則ることを明示していることに鑑みると、前記の帰結が明らかに肯認されよう。
してみれば、最高裁判所の判例統一機能及び国民生活における法的安定性の要請等に鑑み、前記一連の最高裁判所の判例に明らかな非理がある等の特段の理由がない限り、当裁判所としてはこれらを尊重し承服すべきものとしなければならないのであり、控訴人の該博、丹念な各論点を仔細に検討してみても、結局は未だ右特段の理由を見出すには至らなかった。
ちなみに、以下重要な各論点につき、その所以を簡潔に記すこととする。
(一) 原判決の大前提である労働基本観が誤っているとの点について
確かに原判決は、労働基本権を以て「勤労者の経済的地位の向上のための手段として認められた権利」としているが、原判決が依拠する岩教組学テ判決が引用する全農林判決及びこの両判決を「新たな立場から詳細に検討した」とする名古屋中郵判決のいずれもが「この労働基本権の保障は、憲法二五条のいわゆる生存権の保障を基本理念とし、憲法二七条の勤労の権利及び勤労条件に関する基準の法定と相まって勤労者の経済的地位の向上を目的とするものである」としているのであって、原判決がこの理をふまえていない筈はない。そうとすれば、論旨が、労働基本権は勤労者に対してその「実質的な自由と平等とを確保するための手段」と言うことと何程の径庭があるであろうか。もとよりそれが、勤労者にとって生存権保障の「不可欠の手段」として、その制限ないし代償措置を絶対に許さないものと言い切るのは、警察職員、消防職員等についての制限(地公法五二条五項参照)を顧みるまでもなく、他の基本的人権に対する制約との比較からしても到底首肯しうるところではない。
(二) 原判決の「公務員たる地位の特殊性・職務の公共性」論を批判する点について
国家公務員たると地方公務員たるとを問わず、およそ公務員について、一般の勤労者と異って労働基本権に何らかの制約が許されるとするならば、その根底にあるものは、結局公務員の「地位の特殊性及び職務の公共性」以外にはないであろう。成程、この点を前面にうたった全農林判決の論旨は、その後の岩教組学テ判決において原判決判示の如き論旨となり、更に名古屋中郵判決においては、いわゆる勤務条件法定主義ないし議会制(財政)民主主義が前面に押し出されて右の点が後衛におさまった論旨となっていることは控訴人ら主張のとおりであるが、これらの主義からくる労働基本権の実定法上の制約なるものも、その基底にはこの公務員の地位の特殊性と職務の公共性があり、むしろそれらはその一つの具体的な制度的表現であるというべきであろう。
してみれば、公務員の労働基本権の保障に対する制約の根拠を論ずるとき、この視点を過度に強調すること(たとえば、控訴人らが「全体の奉仕者論」とか「主権論」とかにみられると主張するように、これのみを唯一の根拠とすること)はもとより非とされなければならないとしても、この視点を制約論の一根拠とすることに基本的な誤りを認めることはできない。
そして、右のような地位の特殊性と職務の公共性を帯びる公務員が争議行為に及ぶことは、まさにそれ故に多かれ少なかれ公務の停廃に由来して国民全体ないし地方住民全体の共同利益へ重大な影響を及ぼすか、またはそのおそれがあることも肯認せざるをえない。もっともその影響は、国民全体ないし地方住民全体の共同利益という或る意味での観念性を払拭しきれない法益(但しその核心は、憲法が保障する個々人の生存権等の基本的人権の集積と考えられる。)に対するものであることを容認しなければならないが、それ故にまた、一々の計り難さを一概に非難することもあたらないといわなければならない。
ちなみに、しかしながら、そのことは、最高裁判所昭和四一年一〇月二六日大法廷判決(いわゆる「東京中郵判決」)のいう国民生活全体の利益の保障、これを裏返した「国民生活に重大な障害」という標識(いわゆる「国民生活論」)を労働基本権制約の中核に据えることを困難にする。蓋し、そのような一種漠然とした基準で違憲か否かを律するのは必ずしも適切とは言い難いからである。むしろこの点は、その程度如何を以て懲戒処分が相当であるか否か、相当としていかなる処分が妥当であるかを計る場での標識とするのがふさわしいというべきである(この点、前掲(3)の<3>および<4>において右「国民生活論」に拠ったと思われる補足意見、意見、反対意見も争議権一律全面禁止違憲論でないのみか適用違憲論でもなく、結局右の趣旨にとどまるものと解される)。
(三) 原判決の「勤務条件法定主義ないし議会制(財政)民主主義」論を批判する点について
確かに、この論点は、前記のように、全農林判決から岩教組学テ判決を経て、名古屋中郵判決において、公務員の労働基本権制約の根拠として前面に押し出され、その制約原理の中枢に位置した観があるが、その基底には、公務員の地位の特殊性と職務の公共性が据えられていることに疑いなく、右三者間には内的な論理の一貫性があることも否定できない。
そうすると、そこで、即ち名古屋中郵判決において展開されたように、私企業の労働者の場合にみられる労使による勤労条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障、従ってそのような類型の団体交渉過程の一環としての争議権の保障が、右の勤務条件法定主義ないし議会制(財政)民主主義との関係から、憲法上当然にはないとする帰結は、地方公務員についての岩教組学テ判決の判示にも内在する論理というべく、原判決はその趣旨をも含んで論じたもの(原判決七五枚目表二行目から同裏一行目まで)と解して差し支えないが、そうであるとしてそれはそれなりの合理性を有しているといわなければならない。
確かに、前記最高裁判所の三判決において看取されるように、公務員の労働争議権保障の要請と、勤務条件法定主義ないし議会制(財政)民主主義及び遡っては公務員の地位の特殊性・職務の公共性というその制約原理の強調との間には、その均衡と調整になお検討すべき余地がないわけではないとしても、今直ちにそれを以て右三判決によって確立された論旨を不合理としてその結論を動かすまでには至らないというべきである。
(四) 原判決が「代償措置」について論及すること薄きを批判する点について
この点は、原判決の判示(原判決七五枚目裏二行目から同七行目まで)はやや簡に過ぎるきらいがあるが、原判決が、その依拠する岩教組学テ判決において位置づけられた代償措置の重要性と現状の是認の判断を忘失したものとは到底解せられないので、やはり未だ判旨を非とするまでには至らないといわなければならない。
(五) 判決の憲法解釈には、公務員とくに教職にある公務員の労働基本権の国際的基準からの逸脱があるとの点について
しかしながら、我が国が批准したILO八七号条約が、国家に対し公務員の争議権の保障を義務づけたものではないこと、同じくILO九八号条約が、労働者の争議権を保障したものではなく、また、公務員の地位を取り扱ったものではないことは明らかであり、更に、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(いわゆる「国際人権A規約」)第八条一項(d)項が、締約国が確保することを約束する権利として同盟罷業をする権利を掲げていることは認められるが、我が国はこの規定に拘束されない権利を留保して同条約を批准しているのである(昭和五十四年八月四日号外外務省告示第百八十七号参照)。
確かに、たとえば、一九六五年の「結社の自由に関する実情調査調停委員会報告」のいわゆるドライヤー報告が、地方公務員法上の争議権の制限に対する代償措置が完全でない旨を指摘しており、また、一九七〇年の「教員の地位に関する勧告の適用についてのILO・ユネスコ合同専門家委員会最終報告」は、一九六六年の「教員の地位に関する勧告」が教員団体に対しても争議権が保障されるべき旨想定していることを確認しており、更に、「結社の自由に関する条約勧告適用専門家委員会」の一九八三年の報告等には、ストライキ権の制限ないし禁止が許容される公務員や不可欠業務にあたる労働者の範囲をできるだけ限定し、その場合でも代償措置として、適切、公平及び迅速な調停仲裁の手続が用意されるべきこと等の内容が含まれていることが認められる。
しかしながら、これらは、あくまでも政府に対して、ILO各条約の趣旨に副った国内法の整備を求めてその努力目標を掲げているにとどまるのであって、いまだ「確立された国際法規」(憲法九八条二項)としての国際慣習法の如きものですらなく、法的拘束力をもつものでないことは明らかである。従って、現時点で、これらの報告等に記されたこととの整合性を欠き、国際基準に逸脱するとして、公務員に対する争議権を禁止する我が国の前記現行法体系をただちに違憲、違法ないし不当視することはできない。
三 原判決が懲戒権の濫用を否定した判断は誤りであるとする主張について
本件争議の縁由は、控訴人ら教員に対する本件勤評規則(実施要領を含む。以下同じ)の制定、公布にほかならないのであるから、これに関する原判決の理由説示中、控訴人らがとくに問題とする諸点の若干につき、その理由を少しく敷衍することとする。
1 原判決が、本件勤評規則は、当時としては、評定項目等の内容において相当に客観的基準を備えており、それまでの無方式無基準の評定に比すれば、格段に客観的で公正な評価に近づきうるものであるとした点について
およそ集団ないし組織にあっては、公職にあろうとなかろうと、教員であろうとなかろうと、人事管理の要請されるところでは、その人事の公正を担保するために、然るべき勤務評定の必要性があることは、これを肯定せざるをえないであろう。
(証拠略)によれば、昭和三三年当時群馬県下において、県教育委員会が任免その他の人事権を有する県立学校の教職員及び市町村立小、中学校のいわゆる県費負担教職員(地方教育行政法二三条、三七条一項、四六条、地公法四〇条一項、市町村立学校職員給与負担法一条、二条)は一万名をこえており、しかも、学校長の具申に対し(地方教育行政法三六条)、また、市町村教育委員会に対する一般的指示(同法四三条四項)において、適切に対処するためにも、人事管理の統一性、一貫性、明確性が要請されていたことが認められ、従ってそこに然るべき勤務評定が必要とされていたことは明らかといわねばならない。
問題はそのあり方であって、本件に則して言うならば、とくに本件勤評規則における評定項目等の内容と評定手続の主体の相当性であろう。まず、評定手続の主体については、評定者が校長、調整者が教育長とされたことは、原判決及び当判決が説示したように、その学校組織及び教育行政の上での、就中人事面でのそれぞれの役割についての法制上の地位に鑑みれば、結局相当であったとせざるをえない。もとより、その評定の実際においては、被評定者の勤務の状況ないし実態をよく把握することが肝要であるが、そのためには自らの日常的な観察、判断のほかに、被評定者のこれらの状況ないし実態をよく知っている者の意見をも徴することが望まれ、そしてそれは現実に可能であると思われる(全国試案の「説明」5第六条イ、本件勤評規則の実施要領6参照。なお、前掲黒澤得男、剣持常昌の原審各証言及び乙第一二号証の一ないし九、同第一一号証の一ないし四におけるそれぞれの証言―以下単に前掲黒澤、剣持の各証言という―中にもこの点が指摘されている)。評定項目等の内容については、本件にあらわれた全証拠からして、なお論議の余地のあることは、これを推知するにやぶさかではない。しかし、この点は、勤務評定の衝にあたる者の真摯にして反復継続的な研究、検証及び訓練と関係諸学の専門家等の寄与、協力によって、改善可能というべきであろう。方式と基準において格別のものがなく、言いかえるならば、評定主体の主観や貧弱な資料(たとえば内申書の如き)により多く依存していたであろう従前の評定(控訴人らは、勤務評定が従前もこのような形で行われていたと思われるとする原判決の推認を非難するが、それは前掲黒澤、剣持の各証言に徴してあたらないとみるのが至当である。)に比べれば、そこに前進をみないわけにはゆかない。のみならず、評定項目の選択や配列において、あるいは評価の方式等において、全国試案に比べてみても、かなりの工夫、改善が加えられているとみられなくはないであろう。
これを要するに、当時としては、との限定を付した上での原判決の相当性判断は、結局これを是認せざるをえない。
2 原判決が、勤務評定の実施は「法律上要求され」ているとした点について
控訴人らは、それは、「法にあるから行う」という論理への安易な追随であり、遡っては、教育基本法(以下「教基法」という。)一〇条にさえ違反するとの趣旨を主張し、挙証する。
確かに、被控訴人の側においては、本件勤評規則の強行に至る過程において、法律(地公法四〇条、地方教育行政法四六条等)にあるから、執行機関としては当然実施すべきものであるとしていたことは、さきにみたとおりであるが、同時に、それが、人事の公平を担保することによって、教育の効果を向上させるものだと信じていたことが、前掲黒澤、剣持の各証言とくに黒澤証言に徴して十分窺知しうるのである。かかる信念の妥当性は別に判定されるべきであるとしても、この視点を落して、単に「法にあるから行う」という論理に追随するものと論難するのは、被控訴人にとって酷であり、公平な見方とはいえない。
次に、「法にあるから行う」ということ自体は、前提となる法自体をどのように把握すべきかに至難な問題があれば格別、そうでなければ、執行機関としては、その執行過程において、関係諸法規からの逸脱、歪曲に及ぶものがない限り、たやすく違法、不当視されるいわれはないというべきである。この点で、本件において問題となるのは、やはり人規一〇―二との関係であろう。ところで、人規一〇―二が、国家公務員に係るものであり、地方公務員には直接法的拘束力をもたないものではあるにしても、事柄の性質と彼此の身分上の同質性からして、地方公務員の勤評についてもその趣旨をふまえるべきであることは当然である。そして、そこでの、「職務遂行の基準に照らして評定」すべきであるとの趣旨(二条一項)は、必ずしも教員につき職階制が確立されていることを前提とするものとは解し難く、本件勤評規則の各評定項目に掲げられている目安に則って評定すれば、あながち右の趣旨の逸脱、歪曲があるとまでは評しえない。また、「あらかじめ試験的実施その他の調査」を行うことという趣旨(二条二項)も、前記全国試案の作成、公表、若干の県での実施とその調査、研究等(これらの調査、研究の事実は前掲黒澤、剣持の各証言によって認められる)によって、一応充足されたとみてよいであろう(ちなみに、高教組ら教組側が勤評実施絶対反対を唱えている当時の県下の状勢では、そこでの試行などということは所詮不可能であったといわねばならない)。更に、「評定の結果に識別力、信頼性、妥当性」があることをいう趣旨(二条二項)については、本件勤評規則は、さきにその評定項目等の内容に関して触れたように、将来に課題を残しているものの、少なくとも右趣旨の逸脱、歪曲をたやすく看取することは難いというべきである。なお、勤務評定の除外職員を定めた同規則三条にいう「勤務評定を実施することが著しく困難と認められる職員」の中に、教員が当然含まれるべきであるかについては、同条各号に挙示する職員の例に徴して消極に解せざるをえない。
ところで、教員に対する勤評実施が遡って教基法一〇条に違反するとの点は、要するに、不用意に勤評が教員に実施されるということは、戦後教育行政の理念である「指導助言」の範囲を逸脱して、一般行政権限としての「指揮監督」が教育の内的事項に及ぶのを是認するということであり、それは、教育行政がなすべからざる同条一項の教育に対する「不当な支配」であり、同時にまた、同条二項の教育目的遂行のための「諸条件の整備」という教育行政の枠を逸脱するものであるというに帰する。
しかしながら、教基法一〇条が、教育に対する行政権力の不当、不要な介入の排除を含む趣旨であることは勿論であるが、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとい教育の内容や方法に関するものであっても、必ずしも禁止している趣旨ではないというべきである(最高裁判所昭和五一年五月二一日大法廷判決、いわゆる「旭川学テ判決」参照)。
してみれば、本件勤評規則の実施は、法に定めるところに基づくものであり、しかも、さきにみたところよりすれば、数多の教員の人事管理の公正を担保する目的のために必要な措置として合理性を帯有することは否定し難く、遡っては勤評制度そのものが一般に人事権に由来しながらも、むしろ教育行政権力の恣意的な人事権行使を防止する機能をも営むのである(最高裁判所昭和五二年一二月二〇日第三小法廷判決―四国財務局職員懲戒免職事件―における環裁判官補足意見参照)から、それ自体教育の内容や方法への介入と目すべきものではなく、かりに介入とみる余地があるとしても、前記教基法一〇条の法意に鑑みると、未だ「不当な支配」というに足りず、「諸条件の整備」の枠を逸脱するとまでいうこともできない。ちなみに、叙上の趣旨においても、勤務評定規則の内容が勤務条件にかかわりがあるからといって、その制度実施につき、これが団体交渉の目的事項となるものでないことは明らかである。
ひるがえって、この時期における被控訴人の本件勤評規則の強行実施と、控訴人らの高教組等の勤評絶対反対の阻止行動との背後にあるものをさぐれば、一勤評の是非をこえて、より広範な文教政策をめぐる政治の対立にまでも及ぶであろうことは、本件全証拠に徴してこれを窺知するに左程困難ではない。しかし、この視点から、被控訴人の「法にあるから行う」という論理の虚構を指弾しようとするのは、法的見地からする当裁判所の判断の域をこえると言わざるをえない。
四 以上によれば、控訴人らの本訴各請求を棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がないからいずれも棄却することとし、控訴費用の負担につき、行政事件訴訟法七条、民訴法九五条、九三条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 高野耕一 裁判官 川波利明 裁判官 米里秀也)